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’99年にイタリア長期滞在から帰国した私が、
2年半ぶりにまたイタリアの学校に通いました



                     目次

            ふたたびトスカーナ暮らし・・・
                   いよいよ始まった生活・・・
            学校のスタート・・・
            イタリア語とスペイン語・・・
           朝の風景・・・
            ピサの町・・・
            マンマとパパ・・・
           ピサから他の町へ・・・
            ヴァレンタインデー・・・
           ジョンの招待・・・
            お世話になった店の人々・・・
            学校が終わり・・・

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ふたたびトスカーナ暮らし・・・

2002年の2月、1ヶ月近く取れた休みを利用して、久しぶりにまたイタリアの語学学校へ通うことにした。
今度はどの町に行こう・・・、考えに考えた挙句、結局は、リヴォルノのすぐ隣町、ピサの学校に決めることにした。
やっぱりあの辺りは私にとって、一番過ごしたいと思える場所のようだ。

今回は、フランスに近いサンレモの町で1週間のんびりして、それからピサで2週間、学校に通うという滞在予定だ。
ピサでは、初めてイタリア人家庭にホームステイすることにした。
どんな家庭なのか、ホームステイでは重要な問題だ。私は学校を申し込む時、直接学校に電話をして、料理上手なマンマのいる家庭がいいと、念を押しておいた。これだときっと、ちゃんとした家庭を紹介してくれるだろうと思ったから。

旅人として訪れるイタリアと、暮らすイタリア・・・
今回の滞在の目的は、ピサでまた暮らすように生活をすること、そして、イタリア人家庭に入り同じ家で生活を共にすること。久しぶりに、学生気分に戻れるというのも、少し嬉しかった。

2月とは思えないほどカラフルな花々が咲き誇っていた花のリヴィエラ、サンレモの町で1週間、日本との時差を調節しながらゆっくりと過ごし、それから、月曜日から始まる学校のため、10日の日曜、ピサへと列車で向かった。
前日、あらかじめサンレモからホームステイ先に電話を入れておいた。ピサの駅まで車で迎えに来てくれるという。明るそうなマンマの声に、私は安心した。

サンレモからピサへ向かって、列車はずっとリヴィエラ海岸に沿って走ってゆく。サンレモを出たのが朝の8時過ぎ、そしてピサへ到着するのが午後1時過ぎ。5時間ほどの列車の旅だったが、乗り換えもないし何といってもキラキラとした海が見える車窓が私を退屈させなかった。そのうちいつの間にか、同じコンパートメントに座った人達とも話が始まり、これからピサで学校に通うということを話すと、そこから日本のことイタリアのことと話題がどんどん広がっていった。話に花を咲かせているうちに、列車はジェノバ、ラスペツィア、ヴィアレッジョと、大きな駅に停車。別れ際には「ブゥオーノストゥーディオ(勉強頑張ってね)」と言葉を残し、皆降りていった。
ちょうどカーニヴァルのシーズンで、仮装した人達でゴッチャがえしているヴィアレッジョの駅を過ぎると、いよいよもうすぐピサに到着だ。ピサの斜塔の頭が見え、アルノ川を渡り、列車はようやくピサ中央駅に到着した。
列車からの景色列車からの景色



列車から降りると、まず駅構内の電話から、今無事駅に着いたことを知らせるために、ホームステイ先の家に電話を入れた。
「じゃあ、今から駅に車で迎えに行くからね。すぐわかるようにカッコリーナの特徴を教えてちょうだい」
「私は背が高くて、ピンクのセーターを着ていて・・」
「わかったわ、じゃあ主人が行くからここで待っててね」
電話を切って、5分もしないうちに、待ち合わせ場所に車が止まり、やさしそうな老紳士が降りてきた。おそらく父親と同じくらいの年齢だろう。お互い挨拶を交わした後、トランクに私の大きな荷物を車に積みこみ、これから住む家へと向かった。
ホームステイした家の写真車の中で、お互い自己紹介をしているうちに、家に到着。
家ではマンマと、日曜で偶然実家を訪れていた長女マリーナ、そして1匹の犬と2匹のネコが私を出迎えてくれた。
私の部屋は、嫁ぐ前まで娘達が使っていたという部屋。隣にあるバスルームも、私だけが使うのもだと言ってくれた。
ここでこれから2週間、暮らすことになるのだ。
それからの間、マリーナとしばらく喋ったりして、ゆっくりと過ごした。私とちょうど同い歳の彼女は、早口でよく喋る現代っ子。もう着なくなったジーパンをスカートに作り直すのを、マンマに手伝ってもらうために来たらしい。
外は静かな日曜日の昼下がり。マリーナの喋る、久しぶりに聞くリヴォルノの方言が、すごく懐かしく思えた。


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いよいよ始まった生活・・・

翌朝、キッチンへ行くと、マンマが私のために朝食の準備をしてくれていた。
マンマは朝が早い。毎朝6時前にはもう起きるらしい。食事をしながら、マンマといろいろな話をした。マンマはとっても話し好き。自分のこと、家族のこと、学校のこと、今までにこの家でステイした人達のこと・・・。この朝のマンマとのお喋りは、これから毎朝恒例となった。起きた時間は早かったのに、お喋りに夢中になりすぎて、遅刻しそうになった日もたびたびだった・・・。
朝食の写真マンマは
「何か朝食に他に食べたいものがあれば言ってね」
と言ってくれたので、私は
「じゃあ、朝はいつもヨーグルトを食べているので、ヨーグルトもあればいいな」
と言うと、
「わかった。でも、ヨーグルトは本当は身体にはあまりよくないってテレビで言ってたわよ。それを見てからは、私はヨーグルトを食べないようにしている」
と言い、マンマが私にどうしてヨーグルトが良くないか、いろいろ解説をしてくれた。私はヨーグルトが身体に悪いわけはないと思うけど、ここはイタリア、マンマに従って、
「エッ本当?知らなかった。じゃあヨーグルトはやっぱりやめておく」
と言った。別に、ヨーグルトがなくてもどうってことはないし。イタリア人は一見大雑把に見えて、実はどうでもいいようなことにこだわりを持っている人が多い。こんな時、自分が折れることで話を丸く収めようとする私はやっぱり日本人だなあと思う。それでも、翌朝、テーブルにはヨーグルトがちゃんと置かれてあった。Grazie , mamma......

住宅街にある家を出て、学校へと向かう。早足で歩いて15分ほどの距離だ。
学校初日は、例の如く、クラス分けのためのテストを受けた。コースの開始は、通常毎月最初の月曜日。私はコースの途中入学だったので、たった一人で受験した。テストはかなりの量で、簡単な問題からだんだんレベルの高い問題へと構成されていた。わからなくなったところで終了する仕組みだ。9時から始め、12時半頃まで、私は自分のイタリア語の知識を吐き出すかのように、すべて答案用紙を埋めた。
試験が終わり、学校を後にし、久しぶりにリヴォルノへ行ってみるにした。ピサの駅で時刻表を見ると、結構頻繁にリヴォルノへ向かう列車はあった。
ふらっと訪れたリヴォルノ、グランデ通りの好きだったバールでゆっくりと昼食をとり、のんびり、海沿いの散歩道を歩いた。


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学校のスタート・・・

いよいよ授業初日だ。「いよいよだね」と、朝からなんだかマンマのほうが楽しそう。
学校に着き、指示された教室に入っていくと、クラスメートらしきふたりが立ち話をしていた。
「ボンジョルノ」
女の先生が、入ってきた。
「今日から新しく一緒に勉強するカッコリーナです」
と、私をみんなに紹介し、それぞれひとりづつ、自己紹介をすることになった。まず先生、私、そしてあとのふたりも。
どうやら私を含め、3人のクラスのようだ。
ひとりは、スペイン人のイニャキ。35歳の彼は、ヨーロッパのいろいろな国で働いた経験をもつ。母国語であるスペイン語の他に、英語、ドイツ語、フランス語を話せるという。今度は南フランス・コートダジュールにあるホテルで働く予定なので、隣接する国イタリアの言葉は仕事には不可欠らしい。
もうひとりは、イギリス人のジョン。定年退職し、悠悠自適年金生活の彼は、ロンドンの家を今までの大きな家から小さなアパートへと買い換え、それでできたお金でピサ郊外の町に小さな家を買ったという。すぐ隣には、イタリア人と結婚した娘家族も住んでいるので、今ではほとんどイタリアに住んでいて、たまにロンドンへ帰るだけらしい。
「なんて羨ましい」
と私が言うと、ジョンは
「でもここまで到達する為に、ずっと長年働き続けてきたんだよ」
と言った。私も、もう長年働いているんだけどな・・・。
それにしても、60を過ぎても、どうせイタリアに住むのなら言葉もちゃんと勉強しようという、ジョンの向学心は素晴らしいなと思う。彼の英語なまりのイタリア語は、ちょっと聞きづらい。だけど、一生懸命さはずごく伝わってきた。

それぞれに目標意識をしっかり持った、大人のクラスだった。それが私には、とても居心地がよかったように思う。それぞれが自分の時間を大切にしていて、お互いにへんな寄り添い合いがない付き合いもよかった。
私もその頃33歳だったし、もし若い子ばかりのクラスだったらどうしようと内心ちょっと心配していた。夏のヴァカンスシーズンになると、1クラスの人数がすごく多くなり、イタリアに遊びにくることを目的に語学学校に通う生徒が増えるのは、リヴォルノでいやというほど経験済みだった。
そういう意味では、2月を選んで本当に正解だったと思う。
ただ、レベル分けという点では、生徒の人数が少ないと、自分のレベルに合ったクラスというのは難しい。私が入ったクラスは中級とのことだったが、はっきり言って私のレベルには低すぎた。けれども私に合うクラスはないし、新たにクラスをつくるとなるとプライベートになってしまう。マンマも、私が持って帰ってきたテキストの内容を見て、「カッコリーナには簡単すぎる」と怒っていた。生徒数の少ない冬に学校に通うからには、仕方のないことなのだろう。
けれど、私にとっては、そのほうがかえって良かった。クラスメートがいない授業なんてつまらないし、それに、今回は勉強するための滞在ではなくて、毎日学校に通って暮らすことが目的なのだから。レベルが高く、勉強に追われることになると、本末転倒になってしまう。
毎日の授業は楽しいものだった。先生の教え方はバランスが取れていて、常に授業に興味を持たせてくれた。と同時に、いい復習にもなった。


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イタリア語とスペイン語・・

スペイン人のイニャキは、イタリア語とスペイン語が兄弟のように似ているためか、時々先生に
「イニャキ、あなたは今スペイン語を話していましたよ」
と、指摘されていた。それで彼はいつも「はっ」と気づく。自分でもわからなかったらしい。私たちも、間違いだらけのイタリア語かなと思い聞いていたくらいだ。
彼は、ヒヤリングや読解はすごく早い。私たちが集中してやっていても、イニャキは涼しい顔をしている。けれど、文法となると、よくミスをする。
「イタリア語とスペイン語、似ていることが、かえって混乱させる。本当に難しい」
休み時間、イニャキはよくそうこぼしていた。

私も、実は、このイタリア留学から帰ってから、スペイン語の勉強を始めた。あれだけイニャキが悩んでいたイタリア語と似ているスペイン語って、いったいどんなものなのだろうかという好奇心からだ。
始めはすごくおもしろかった。まず、イタリア語と全く同じ単語が本当に多い。farmaciaはfarmaciaだし、 frescoはfresco、 salsaはsalsa、たくさんありすぎて数え上げればきりがない。文法も本当にイタリア語と似ているし、私が最初イタリア語を始めた時よりもずっとずっと入っていきやすかった。これなら半年でスペイン語をマスターできるかな?と内心思っていたが、結局、勉強を始めてから5ヶ月を過ぎた頃、やめてしまった。イニャキのように、混乱してきたからだ。2つの言語がごっちゃになり、イタリア語まで中途半端になりそうだと思った。
今ではもう、挨拶に毛が生えたくらいのスペイン語しかわからないが、まぁ、いつかスペインに行った時に、少しは役に立つかなと思っている。


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朝の風景・・・

道路脇に咲くミモザ










毎朝見ていたミモザの花
毎日学校へ行くというリズムがあるから、私の生活は、一応暮らしているんだという実感が味わえていた。
毎朝、マンマとたくさんお喋りをして、遅れそうになって慌てて家を飛び出す。通学路はいつも同じで、パン屋さんは朝早くから開いているし、バールでは出勤前にブリオッシュの朝食をとる人で朝から賑わっている。新聞スタンドの前に掲げてある今朝の新聞の見出しのポスターを横目で読みながら、早足でその横を通り過ぎる。
いつも線路の上をまたぐ道路を歩きながら、遠くに見えるアプアーネの山並みを見るのも習慣だった。冬の朝の空気は澄んでいて、遠くの山々の輪郭がはっきりと見える。昔登ったロッカらしきとんがった山もあった。毎日毎日見ているうち、いつの間にか、その形まで覚えてしまっていた。ところどころに咲く、地中海沿岸の2月の花、ミモザの黄色い花も愛らしい。そうこうしているうち、ピサ駅の前を横切り、駅の入り口にある時計で時間を確認、「やばい、遅刻だ」と、慌てて最後のダッシュをする。


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ピサの町・・・
                                                   
アルノ川とピサの町










アルノ川沿いに広がるピサの町



1時に学校が終わると、普段は「また明日」と言ってみんなと別れ、ピサの町を散策することが多かった。
日本人にはピサの斜塔がある町として有名なピサの町。だがその観光客のほとんどが、バスでピサにやって来て、斜塔のあるドゥオーモ広場だけに立ち寄り、またすぐ他へと移動してゆくので、このドゥオーモ広場を少し離れると、ピサは案外観光の町とは思えない素顔があった。むしろ、学生の町なので、物価も安く、ほとんど外国人にも出会わない普通の町だった。
ピサには、ガリレオガリレイが教壇に立ったという歴史あるピサ大学があり、よく注意して見ると、街角のあらゆる場所に学部の看板を見つけることができた。カヴァリエーリ広場で立ち話をしているほとんどはピサ大学の学生だし、バールでは、学生たちが本を広げながら長居をしていた。

私は、気の向くまま、学生たちがたむろするバールに入ったり、斜塔があるドゥオーモ広場の芝生の上に座って学校の宿題をしたり、映画館で映画を見たりと、午後を過ごした。2月の日はまだ短く、暗くなるのも早かった。午後、ピサの目抜き通りの店がふたたび開きだすのも、日も落ちてしまった頃だった。1日のうちでいちばん町に人が集まる時間だ。すっかり日も暮れてしまった町を、店のウインドウを眺めながらまたそぞろ歩き。さすが学生の町だけあって、本屋が多く充実していることにも感心したが、隣の町ルッカ同様、この町も意外にショッピングの穴場かもと思った。ひととおりのイタリアンブランドの店も揃っているし、旅行者用の価格設定ではない。ちょっとイタリア語ができないと不便かもしれないが、ミラノやフィレンツェよりも落ちついて買い物が楽しめる町だ。
そうこうしているうちに、私は7時には絶対間に合うよう、家路を急ぐ。マンマがおいしい料理を作って、パパと一緒に私を待っていてくれているからだ。


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マンマとパパ・・・

私はマンマとパパと一緒に暮らして、新たな発見がいろいろあった。
その感想を一言でいうと、イタリア人もいろいろなんだなぁということ。

まず、食卓。今まで私は、イタリア人は絶対食事中はワインを飲むものだと思っていた。日本人が食事中にお茶を飲むように。ところが、マンマもパパも、食事中にはトニックの水割りを飲んでいた。私も勧められたが、ちょっと苦手だったので水(ガスなし)にした。それから、食事の後は必ずカッフェ(エスプレッソ)か、男の人だったらグラッパを飲むものだと思っていたが、グラッパどころかカッフェも飲まなかったのには驚いた。私は今までそんなイタリア人を見たことがなかった。
マンマは、カッフェを飲む時は、いつもミルクかお湯を足すという。アメリカンコーヒーを、色のついた水だといって毛嫌いするイタリア人しか知らなかったので、へぇ〜、こんな人もいるんだ、と思った。

マンマは朝も早いが、寝るのも早い。だから食事もいつも7時から始まる。たいていイタリアの夕食の時間は、早くて8時、普通は9時から始まると信じていたから、これにも驚いたのと同時に、少し安心した。結局、どこででも無理をせず、自分のリズムで過ごせばいいんだと思った。

マンマはもともとリグーリアのラスペツィア出身。結婚してピサに来た。彼女はもうピサに来て、とうに30年以上にもなるが、ピサ人の地元意識の強い閉鎖的なところが嫌いだという。いろんな仕事をして、旅行をして(今までアジア、南アメリカなど遠い国にも旅行したことがあるらしい)もっと見解を広げていきたい、地元に執着するのはいやだと、これもイタリア人らしからぬ言葉に驚いてしまった。私が「でももう33歳だし・・」と弱音を吐くと、「何いってるの、そんなこと言ったら私はどうなるのよ」と元気付けてもくれた前向きなマンマだ。それでも、おしゃべり好きなところ、家族をとても愛しているところ、自分の主張がちょっと強いところは、やっぱりイタリア人なんだなと思う。

パパは、反対に口数が少ない。そして、話す時はとても優しく話す。大柄な体格そのまま、頼れる人だ。
朝はいつもパパには会わない。朝は苦手らしく、私が学校へ行く頃はまだ寝ているという。その代わり夜は遅い。宵っ張りだ。毎晩食事の後、場所を変え、居間でテレビを見るのがパパの日課だ。私も付き合って毎晩一緒にテレビを見ていた。2人でテレビを見ていると、ネコも膝の上に乗ってきて、ネコの背中を撫でてあげながら、パパは時々テレビの解説をしてくれる。パパと、テレビとは関係ない話をするのもこの時間だ。マンマとのそれとは違い、私がいろいろ尋ねて、それにパパが答えてくれることが多い。やさしい間接照明と暖炉の火が、とっても心地良かった。そのうち、犬が犬小屋へ寝に帰りたいと吠え、パパは犬を外へ連れ出す。その頃になると、私もだんだん眠たくなってきて、「じゃ、私も」となる。パパに最後まで付きあうことのできた夜は、結局一度もなかった。

ある夜、いつものように一緒にテレビを見ていると、
「カッコリーナにまだあのビデオを見せてなかったな」
と、ビデオを持ってきた。パパは、ラジコンで動く小型飛行機を作って飛ばすのが趣味で、よく仲間と一緒に専用の滑走路がある飛行場へ飛行機を飛ばしに行くらしく、ビデオはその様子だった。解放感のある大空を飛ぶ小型飛行機。そこに写っているパパ達パイロット仲間は、少年のように目を輝かせていた。
「下に飛行機があるから今度見せてあげるね」
と約束したが、結局見せてもらう機会がなかった。

マンマもパパもお互い生活パターンが違うので、それぞれマイペース。だけど、夕食の準備を仲良く手分けして行っている様子はとても仲睦ましいものだった。マンマが料理している間、いつもパパと私はテーブルクロスを敷き、フォークとナイフや紙ナプキンを並べ、お皿をセットする。「これだけはパパの方が得意なの」と、ガーリックをオリーブオイルで炒めるのだけは、いつもパパの仕事だった。
滞在が2週間と短かったので、マンマにお料理をじっくり教わる時間がなかったのは、少しもったいなかったなと思う。それでも、毎晩のおいしいマンマの家庭料理をみんな揃って食べ、そして何よりも、マンマとパパとたくさんの会話の時間が持てて、イタリア家庭にホームステイして本当に良かったなと思う。


庭から見上げた私の部屋










庭から見上げた私の部屋


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ピサから他の町へ・・・


毎日学校が終わると、いつも、「さあ、これからどうしようか・・」と考えた。
ピサ中央駅はイタリアの主要ターミナル駅。リヴォルノ・ローマ・ナポリへと続く方面と、フィレンツェ方面、ジェノバ方面、さらにルッカ方面と、四方向に向かって列車が出て行く。
学校が終わった後、なんとなくどこかへ行きたい気分の時は、いつも駅の方へと足が向いた。駅構内の出発列車案内板を眺め、どこに行きたいか考える。

ルッカの町ルッカへは何度となく行った。10分足らずで行けてしまう気軽な町だった。ピサと同様、ルッカも観光地でありながら、観光客の団体などとめったに出会わない、普通の町だ。こじんまりとしていて、すべて歩いてまわれる所もいい。
ルッカは上質の革製品で有名だ。そういえば靴屋さんが目立つ。日本に帰る前に、ルッカで革のブーツを買った。店員と話していて、
「そう、ルッカは靴職人も多いのよ。この町でつくられた靴が他の町でも売られているわよ」
と言っていた。
ピサの町もそうだが、ルッカもゆっくりと買い物を楽しむにはいい町だ。
この町で買った仕事の時用の時計は、しょっちゅう人に「それどこの時計?」と聞かれる。シンプルで使いやすい、おしゃれなデザインが目を引くようだ。時計を買う時、店の人は、「デザインはイタリア、機械はスイス製」と強調していたのがおかしい。

土曜日に行ったルッカでは、偶然骨董市が開かれていて、町のいたるところで骨董品が売られていた。古い陶器や、本、絵画、宝石など、冷やかしているだけで楽しい。
他にも、骨董品とは関係のないもののお店まで混じっていて、地元の物産展のような店まであった。ルッカの北部、ガルファニャーナの蜂蜜に惹かれ、「荷物がまた重くなってしまうな・・」と思いながら、瓶に入った蜂蜜を買ってしまった。蜂蜜を売るお姉さんとの話が弾んでしまい、なんとなく買う流れになってしまったのだ。その後、うろうろしていて、何度もまたさっきの蜂蜜を売るお店の前を通ったが、その度に「また来たね」と笑顔で声をかけられ、少し照れくさかった。

悪魔の橋また、違う日のこと、以前よくトスカーナ北部へドライブに出かけたときに横を通った悪魔の橋を見に行こうと思い立ち、これもまた、学校が終わった後、列車に飛び乗った。
ルッカを過ぎ、列車は山間に流れるセルキオ川に沿って北上していく。乗っていた単線の超ローカル列車の中は、ほとんどが学校帰りの高校生ばかりだった。ボルゴアモッツァノに着き、列車を降りると、いつものように、帰りの列車の時刻を調べようと駅の時刻表を探した。ところが、時刻表がないばかりか、切符売り場すらない。ボルゴアモッツァノは寂びれた無人駅だった。
とりあえず、誰かに橋のある場所を聞こうと、前を歩いていた、同じ列車に乗っていたシニョーラに声をかけた。
するとシニョーラは、
「私はこの村に住んでいるの。途中まで同じ方向だから一緒に行きましょう」
と言ってくれ、橋の名前の由来など、いろいろ教えてもらいながら、途中まで一緒に歩いた。シニョーラと別れ、ひとり、言われた通りに歩き、20分ほど、木々の間から特徴のあるあの橋が見えてきた。
私は、橋を渡って、写真を撮り、橋のふもとの小さなバールでカッフェを飲み、また橋を戻って、来た道を戻ることにした。
「よかった、これで帰ろう」
橋の上からの眺めそう満足感に浸りながら歩いていたが、そういえば帰りは何時の列車か見ていなかったことを思い出した。
駅近くに、村の観光インフォメーション(案内所)があった。午後は3時半からと書いてあった。あと10分ほどだ。とりあえずここで聞いてみようと、しばらく前で待つことにした。ところが、3時半を過ぎてもインフォメーションは閉まったまま。15分ほど遅れて、ようやくお姉さんがインフォメーションにやって来た。私が待っているのを見て、慌ててオープンしてくれた。有名でもない小さな村のインフォメーション、しかもこんな季節はずれに尋ねてくる人もきっと稀だから、遅れてきたのだろう。
お姉さんは、謝りながらとても親切に対応してくれた。駅の列車の時刻がわからないことを言うと、
「たぶん誰も知らないと思うわ」
と言い、わざわざ電話をかけて調べてくれた。列車の切符は近くのバールで売っているという。ついでにボルゴアモッツァノのパンフレットをもらい、「ありがとう」と言って、インフォメーションを出た。
教えてもらった列車の時間まで、あと2時間近くもあった。もう何もすることがないので、バールで時間を潰すことにした。
バールに入り、カッフェを頼み、切符を買った。ここでも列車の来る時間を聞いてみた。
「一応、時刻表は持っているけど、あてにならない。いつダイヤが変わっているかわからないし。だから、ちょっと正確には教えられないよ」
と言われてしまった。やはり早めに戻ってきてインフォメーションで問い合わせておいてよかった、と、つくづく思った。
誰もいない駅










誰もいない駅
バールで列車を待っている間、私は学校の宿題をしたり、テーブルに自由に読むように置いてある新聞を見たりして時間を潰した。小さな村のバールは地元の社交場と化していて、いろんな人がやって来ては出て行った。
それにしてもボルゴアモッツァノがこんな小さな村だったとは想わなかった。3年半前、この村のハロウィン祭りで初めてボルゴアモッツァノを訪れた時は、村中すごい人だったのが嘘のことのようだ。
列車は、教えてもらった時刻になるとスッと到着し、スッっと静かに発車した。誰もいない駅で、乗ったのも私ひとり。
家に帰って、マンマとパパにをそのことを話すと、
「よくもまた、そんなところまで行って来たわね」
と変に感心をされてしまった。                       


その他、リヴォルノへも何度か行った。列車で行ったりバスで行ったり。
列車もいいけど、バスに乗ってリヴォルノへ行くのは、また違ったアプローチでなかなかよかった。バスでもルートが2つあり、内陸の笠松並木を通り抜ける道と、海辺に沿ってマリーナディピサやティレーニアを通っていく道と。

学校が終わった後、他の町へ遠出した日も、必ず7時の夕食の時間に間に合うように帰り、3人で食卓を囲むのはいつも変わらなかった。

バスからの眺め


       
バスからの眺め

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ヴァレンタインデー・・・

2月14日、ヴァレンタインの日がやってきた。
イタリアでは、この日女性が男性にチョコを送る習慣はない。
もともとヴァレンタインの発祥の地はここイタリアらしい。そのイタリアでは、ヴァレンタインは恋人の日とされている。この2月14日、恋人同士はお互いにプレゼントを交換し合う。私は今この日、イタリアにいるけど、日本人の私はやっぱり日本の習慣に従おうと思い、パパにチョコレートを贈る計画を立てた。おしゃれなパスティッチェリアでチョコレートを買い、きれいにラッピングしてもらった。

いつものように、その日も家に帰り、自分の部屋で少し着替えたり支度して、キッチンで夕食の準備を手伝った。
食事を終え、「さぁ、チョコレートを渡そうかな」と、自分の部屋へ戻ったが、あれっ?確かに買っておいたはずのチョコレートが見つからない。そんなはずはないと思い、部屋中捜したが、どこを探しても、とうとうチョコレートは見つからなかった。
「きっと、買った店にチョコを置き忘れてきたのだろう・・・」
せっかくパパを驚かせようと思っていたのに、と、仕方なく諦め、パパがテレビを見ている居間へテレビを見に行った。
結局、こうして私のヴァレンタイン計画は、見事失敗に終わってしまった。

それから数日たったある日、パパが私に尋ねてきた。
「カッコリーナ、このラッピングやリボンに心当たりはないかい?」
それは、あのパパに買ったヴァレンタインチョコの包みだった。
パパはこれを見つけて、マンマもパパもこれがいったい何の包みなのか、全然思い当たらずにいたらしい。
私は正直に、ヴァレンタインの日に私がたくらんでいたことをパパに言った。買ったはずのチョコが見つからず、店に置き忘れてきたと思ったことも。
パパは、笑いながら
「部屋のドアがきっとちゃんと閉まっていなかったんだろう。犬がチョコを見つけ、食べてしまったんだね。うちの犬は、賢いけれど甘いものには目がないんだ。」
と言った。ああそうか、だから・・・。
「カッコリーナ、遅くなったけど、ヴァレンタインチョコありがとう。おいしかったよ。犬の代わりに、御礼を言うよ」
なんだか笑い話のような、忘れられないヴァレンタインとなった。


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ジョンの招待・・・


学校に通う生活が始まって、初めての金曜日。クラスメートのジョンが
「住んでいる家の近所に、お気に入りのトラットリアがあるんだけれど、日曜日に来ませんか?」
と、イニャキと私を、日曜の昼食に誘ってくれた。
もちろん私たちは喜んで、ジョンの招待を受けることにした。

ジョンの家は、ピサの隣にある小さな町、カッシーナにある。
日曜日、私はイニャキの車に乗せてもらって、ジョンの家へと向かった。
家では、ジョンと奥さんと、ジョンの娘さんとそのかわいい子供が私たちを待っていてくれた。お互いに挨拶を交わした後、そのままジョンの車の先導で、みんなでそのトラットリアへと向かった。
ジョンの車は、どんどん山の方へと進んでゆく。「どこが近所なんだよ・・・」とイニャキと笑いながら、私達は後に続いた。
澄み渡る青い空。本当にいいお天気だった。
なんだか見覚えのある風景。それは、きっと以前通ったことのある道だった。
オリーブの木々が続く見覚えのある田舎の景色・・・暑い夏の日に来たカルチの博物館の近くだった。右に曲がり、さらに坂道を登っていくと・・・。「あ、ここは!」。あの爽やかな秋の日、トレッキングのために来た村。ここから歩いてロッカに登って、また戻ってきたモンテマーニョだった。歩きながら、まだつたなかった私のイタリア語を、みんな退屈な顔一つせずに聞いてくれた。みんなで励ましあいながら山に登った、あの3年前のことが鮮やかによみがえってきた。
そうして車を止め、山裾にひっそりとたたずむ村モンテマーニョの素朴なトラットリアへと私たちは入っていった。

日曜日のお昼どき、家族連れでやってきた地元の人々が他のテーブルを囲んでいて、トラットリアは和やかな雰囲気につつまれていた。木でできた素朴なテーブル、家庭料理のような素朴で温かい料理の数々。ハイジのおじいさんのような主人が料理を運んでくれた。
ジョンの奥さんはイタリア語ができない。だったら、今日はイタリア語の休息日にしようと、私たちは英語で喋りながら和気あいあいと昼食を楽しんだ。聞けば、ジョンの娘さんも、以前私達の通っている語学学校に通っていたそうだ。今ではイタリアで家庭を持ち、イタリア人に英語を教えながら、ここで暮らしている。
彼らのように、ヨーロッパ内を自由に行き来できる生き方は実に羨ましいと思う。
日本人にとって、イタリアで職を見つけ生活するにはたくさんの障害がある。普通、労働ヴィサを取得するだけでも並大抵ではないことだし、仕事も限られてくる。その点、彼女や、ジョン、イニャキ達が本当に羨ましい。気軽にイタリアで家を持ったり仕事を見つけたりできるのだから。ドイツ人がトスカーナに夏の別荘を購入することが人気だということもよく耳にする。モンテマーニョにて

見覚えのある景色
  
ランチの後・・・               見覚えのある景色

食事を終え、私たちはふたたびジョンの家へと戻った。ジョンの娘さんは、子供にお昼寝をさせるために自分の家に帰っていった。
私たちは、奥さんが入れてくれた英国紅茶を口にしながら、しばらくの間居間でお喋りをしていたが、そのうち誰かが
「庭へ出よう」
と言い、午後の静かなひとときを庭のテーブルでゆっくりと過ごした。
庭からのモンテピサーナの山並みは素晴らしく、気持ちのいい小春日和の午後だった。


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お世話になった店の人々・・・

短い滞在でも、馴染みの店というものはできるものだ。
私は学校が終わった後、お昼を食べに2日に1日はモイゼというピッツェリアに通っていた。
ひとりでも気軽に入れるこじんまりとした食堂のようなこのお店は、釜焼きピッツァのほかに、チキンやポテトなどのオーブン料理、焼きたてほかほかの自家製パンやフォッカッチャがおいしく、店の客はここが気に入って毎日通う顔なじみがほとんどだった。
この店はモイゼというおじいちゃんと伴侶であるおばあちゃん、そして2代目らしき体格のいい息子の3人で切り盛りしていた。
モイゼのカスタナッチョ










モイゼ特製栗の焼き菓子カスタニャッチョ
私がこの近くの学校に通っていると言うと、最初、ピサ大学の学生と勘違いをされてしまった。
イタリア語で「Si mangia bene e si spende poco(安くてうまい)」という表現があるが、まさしくこの言葉どおりの店だった。いつも店に入ると、友達を招き入れるかのように「よく来たね」と言う。他のテーブル客もいつもの連中ばかり。「チャオ」「チャオ」と、声がかかった。
ある朝、学校へ行く途中、いつものように線路をまたぐ道路を歩いていると、横を走る車から「チャーオ」という大きな声が聞こえてきた。見ると、モイゼの若主人とその家族が車から身を乗り出すようにして私に手を振っていた。マンマミーア、私は慌てて手を振り返した。
                                         


いつも温かいおもてなしを受けたモイゼのほかにもう1軒、馴染みになったわけではないが印象に残っているレストランがある。
それは、私の学校最終日の昼食に、クラスメートのイニャキが「そろそろ日本の味が恋しくなってきただろうから」と連れて行ってくれた中国料理のお店。
中国人一家が営むペッキーノ(北京)というそのレストランは、中国人観光客らしき人々で賑わっていた。
厨房もレジもサービスするのもすべてここのおじいちゃんから孫までが一家総出で手伝っていた。
外国料理店がほとんどないこのイタリアはピサの町で、成功し暮らしているこの中国人一家に是非話を聞いてみたいと思い、私はレジの女性に話しかけた。
彼女は流暢なイタリア語で、
「ここは仕事をする場所。北京からピサへ来てもう20年。北京へは年に1回バカンスで帰る。それだけを楽しみに毎日頑張ってみんな働いている」
と私に言った。
彼女の言葉は、私の心に響いた。
これもまたイタリア。
きっと、私はまだまだイタリアではお金を使いに来ているだけのお客さんに過ぎないんだろうなあと思った。


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学校が終わり・・・

本当は4週間のコースに、2週間目と3週間目だけ途中入学した私は、あと一週間残るコースを残し、私だけ一足先に学校最後の日を迎えた。
もうこの生活も終わるんだと思うと、やっぱり淋しく名残惜しい。努力家のジョン、クラスの雰囲気を楽しくしてくれたイニャキ、先生のロサーナは教養豊かで授業も楽しみだったし、初級コースにいたネパール人の女の子とも仲良くなった。出会いの後には必ず別れが来る。
とうとう最後の授業も終わり、私はみんなに別れの挨拶をした。
みんなにちっちゃなぬいぐるみも配った。明日は私の誕生日。誕生日を迎える人がいつも世話になっている人にお礼のプレゼントをするという、イタリアでのやり方を真似てみた。私の事をいつまでも忘れないでという気持ちも込めて。

翌日の土曜日、私は絶対にこの日にやろうと心に決めていたことがあった。
あいにくの曇り空だったが、私は朝から歩いてピサの斜塔へと向かった。
斜塔の向かいにあるオフィスで予約し、チケットを購入。
そう、この日は私の誕生日、記念に(?)ピサの斜塔に登ろうと思っていたのだ。

傾斜が年々ひどくなっていたピサの斜塔は10年ほど前からは、人がもう登ることはできなくなっていた。それが半年ほど前から、まだ人数制限はあるものの、また登ることができるようになった。イタリアにあるあの傾いた塔に登るのは、子供の頃からの永年の夢だった。

予約した時間に集合し、いよいよ塔の中へ。真ん中が磨り減った石の階段をくるくると上った。
頂上に立ち、初めてみる斜塔からの眺め。360度に広がるトスカーナの伸びやかな大地や、アプアーネの山並みも、きっと一生忘れることがないだろう。

斜塔の階段斜塔の階段斜塔の写真

斜塔からの眺め斜塔からの眺め



斜塔からの眺め・ルッカ方面斜塔からの眺め・リヴォルノ方面



虹の写真 
                  ピサからルッカへ行く途中で出逢った虹


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